手をうまく描くコツは、丸い板に五本の指が生えている物として描くのではなく、手首から5方向に分かれている長い指があって、最初の関節までは肉が間を埋めているものとして描く事だ。(Feb 10, 1:00am) (via 山中俊治の「デザインの骨格」 » 手を描いてみましょう)
富士山のフルパワー(過去の最大規模噴火)を1とした場合の、各火山のフルパワー比較
富士山 1
北海道駒ヶ岳 3 有珠山 3 樽前山 4 浅間山 4
九重山 5 燧ヶ岳 7
ピナツボ 10
桜島 12
箱根山 14
※横浜まで火砕流に飲み込まれた
摩周湖 19
大雪山 20
十和田湖 56 ※青森県の大半を火砕流が焼き尽くす
霧島山 100
屈斜路湖 150
洞爺湖(有珠山の本体) 170
支笏湖(樽前山の本体) 225 ※火砕流が札幌を飲み込んで日本海に到達
姶良カルデラ(桜島の本体) 450
阿蘇山 600 ※火砕流が九州の4分の3と山口県を焼き尽くす
イエローストーン 2500
異常に嗅覚が鋭く、ある番組の企画で犬に勝ったことがある。
2008-07-08 (via gkojay) (via jacony)
こういう雑誌の主な読者は、戦前世代の軍国老人だ。彼らにとっては、いつまでも「東京裁判」や「占領軍」や「平和憲法」が憎く、論壇の主流だった「戦後民
主主義」に対するルサンチマンをこの種の雑誌で解消してきたのだろう。編集者は「われわれは右翼思想に共感してるんじゃなくて、大手メディアのすきまをね
らってるんです。平和と民主主義は新聞で読めるから、雑誌で書いても売れない」といっていた。
右派誌が一定の解毒剤の役割を果たしたことは確かで、朝日新聞も無条件で「憲法を守れ」とはいわなくなり、岩波書店などの左派論壇は一足先に没落した。し
かし皮肉なことに、こうした戦後的な価値が風化するとともに、それを補完する右派論壇の存在意義もあやしくなってきた。もうすきまがなくなった、というか
すきまだらけになって、論壇というものが消えてしまったのだ。
その意味では、彼らの嘆く「言論の衰弱」が起こっているのだが、いちばん衰弱しているのは彼らの言論だ。この最終号には「諸君!これだけは言っておく」と
いう、櫻井よしこ、西尾幹二などのおなじみのメンバーによる座談会があるが、中身のない「新自由主義批判」が繰り返され、司会の宮崎哲弥氏は「定額給付金
などのバラマキは必要だ」という。何のことはない。左右の万年野党は、市場経済を否定して政府の温情主義を要求する点で一致しているのである。
いま必要なのは、こうした左右の(国家がすべてを解決するという意味での)国家主義の幻想から覚め、人々が分権的に問題を解決するしかないという散文的な
現実を直視することだ。そのメカニズムは市場だけでなく、言論の効率的な配分という点ではウェブも重要な役割を果たすだろう。集権的な大手メディアが読者
に「正論」を配給する時代は終わったのだ。この新しい現実を理解できない左右の万年野党が墓場に行くのは、祝賀すべきことだろう。
もう日本の総理大臣は秋篠宮家の娘とかにしようぜ そしたらみんな言う事きくだろ? 私はきく。党首討論で「おだまりなさい」っていわれたら黙るでしょ? 私はだまるよ。
Twitter / renault: もう日本の総理大臣は秋篠宮家の娘とかにしようぜ そし … (via tsupo) (via takets) (via kondot) (via nemoi) (via pedalfar) (via appbank) (via maumau-ru) (via uessai-text)
2010-04-08 (via gkojay) (via jacony)
「愚策でもわかっていたとしても黙らなければならない」場面が出てきたらどうするの?何処の誰が「愚策です」と「畏れ多くも申し上げる」役をやるの?目も当てられねーわその気まずさ。仮にその方に悪意があろうがなかろうが、その気まずさのせいで日本は滅ぶの?そりゃあすげぇな、超日本らしいわ。
ちょっと言及していい?
松屋のアルバイトが労組立ち上げて賄いの無料化等を会社に訴えたこと覚えてる?
本来ならば、マスメディアをこれをね、労働運動として取り上げるべきなんだけど
彼らは1週間でピタッとその報道をやめたの。何故だと思う?経団連だよ経団連。
経団連が「よろしくない風潮」として各マスメディアに圧力かけたわけ。TV等の
マスコミはスポンサー料でもって運営してるわけだから経団連傘下の企業に「スポンサー降りるぞ」
って言われたらもう成す術ないの。じゃあそこで普段からそういうマスコミを批判してるお前らはなんて言ったと思う?
当時の2ちゃんねるでは、「バイトのくせに調子こくなやw」って論調が過半数を占めたわけ。
つまり経団連と同じ論調だったわけ。立場は相反するのに。
この国はね、もう駄目だよ。あと10世紀は搾取されるんじゃないかな
鶴見は、生誕に始まり死に終わるまで続く「教育」の最後の目的を「死」を迎え入れる準備をすること、としている。ならば、それが、学校に留まらないことも、誰よりも、家庭の中で先行する誰かが、遅れてやって来る者に向かってするものであることがわかるだろう。
「生」と「死」について語ることができない「教育」は「教育」の名に値しないのだ。だが、それは、どうやってすればいいのだろう。「私の息子が愛読している『生きることの意味』の著者高史明の息子岡真史が自殺した。『生きることの意味』を読んだのは、私の息子が小学校四年のときで岡真史(一四歳)の自殺は、その後二年たって彼が小学校六年生くらいのときだったろう。彼は動揺して私のところに来て、『おとうさん、自殺をしてもいいのか?』とたずねた。」
小学校六年の子どもから「自殺してもいいのか?」と訊ねられた時、みなさんなら、どう答えるだろう。ぼくが、鶴見俊輔という哲学者に絶対的な信頼を抱くようになったのは、その答を読んだ時からだ。少し、考えてくださいね。
「私の答は、『してもいい。二つのときにだ。戦争にひきだされて敵を殺せと命令された場合、敵を殺したくなかったら自殺したらいい。君は男だから、女を強姦したくなったら、その前に首をくくって死んだらいいい。』そのときの他に、彼と男と女についてはなしたことがない」
鶴見の「答」は、通常の意味では「答」ではない。なぜなら、その回答は、戦争中、鶴見が自分に対して決めていた信条(クレド)だからだ。捕虜してアメリカに抑留され、その後、帰国して兵士になった鶴見は、いざという時、「敵を殺す」役割を与えられるなら自殺しようと決めていた。・(戦場で)誰かを強姦するような心理に自分も巻き込まれそうになったら、その前に自殺しようと考えていた。だから、鶴見の「答」は「私はそう考える」にすぎない。
だが、子どもの「おとうさん、自殺をしてもいいのか?」に答える、とは、ありもしない「正解」を伝えることではない。「その問題について、わたしはこうした。おまえは、どうする。おまえに、信条(クレド)あるのか。ないとするなら、なぜなのか」と問い返す以外にはないのである。この「わたしはこうした」の中に、「きみも、きみ自身の信条(クレド)を作れ」という言明が存在するのではないだろうか。
「ならいおぼえたものを伝える」だけの教育者は、「ならいおぼえたものを伝える」ことしか知らない者を産み出す。個人的な「痛み」を通過した「信条(クレド)」の伝達だけが、次の「信条(クレド)」を産み出す産婆となる。それを、鶴見は「教育」と呼んだのである。
「教育」はどこかの「教育者」がやるのではない。ぼくが(あなたが)、誰かにほどこすものであり、そのことによって、ぼくが(あなたが)ほどこされるものなのである。そして、その中心には、ぼくの(あなたの)「痛み」を必要としている。
今晩は、ここまでです。ご静聴、ありがとう。今日のツイートは、その『教育再定義への試み』を中心にしていました。鶴見俊輔さんは吉本隆明さんと、生まれも思想もまるで正反対なんだけれど、(双子の兄弟みたいに)似通っているところがあって、そこがお互いに深い敬愛の念を抱いている理由だと思いますね。
「教育」18・「私の言いたいことは、今の日本は学校にとらわれすぎているということ。学校がなくても、教育はおこなわれてきたし、これからもおこなわれるだろう。学校の番人である教師自身がそのことを心の底におけば、学校はいくらかは変わる」のである。
